●2005/10/18浜武レポート「人材登用〜伊藤博文公に学ぶ」

民主主義の究極型

伊藤博文公の足跡を知り

日本国初代内閣総理大臣伊藤博文公の最大の功績は薩長土肥及び公家出身者であれば能力いかんに関わらず要職に就けた太政官制度による国家運営を有能であれば門地に拘わらず何人でも登用される法治国家(憲法の起草や政党の設立など)に転換した事と換言できる。

伊藤公は長州出身者だから黙っていても天下は取れる立場にいただけにその「懐の深さ」は計り知れない。

「懐の深さ」の史実の一つとして陸奥宗光の登用がある。

陸奥は伊藤公の推挙で外務省の要職を歴任するのだが、明治天皇はこの登用に疑問を持った。

それは西南の役の際、土佐藩出身の陸奥は新政府打倒を企て、伊藤公を暗殺リストに書き加えたのである。

明治天皇が反対したのはその事に明るかったからに他ならない。

しかし、伊藤公は「臣が責任をもちます」と奏上してこの人事を断行する。

陸奥はその登用に応え、列強との間で結ばれていた不平等条約を撤廃し対等条約を締結していく事は世界的にも希に見る日本外交の輝かしい事績である(因みに、わが国初の政党内閣を組閣した原敬[原は戊辰戦争で朝敵あった盛岡藩出身。また平民籍を有していたので平民宰相と呼ばれた立志の人物]を通 商局長に抜擢したのは陸奥である)。

しかしながら、このような「懐の深い」人材登用の最も光り輝いたのは日露戦争終結その時であろう。

ポーツマス講和会議で影で日本を支えたのはルーズベルト米国大統領だが、この援護射撃を可能せしめたのは同大統領とハーバード大学時代同窓だった金子堅太郎の厚い人間関係である。

金子は伊藤公の腹心に過ぎなかったが、まさに独自の人脈と努力と熱意で戦争の仲裁に成功する。ロシア全権のウィッテ伯に全く太刀打ち出来なかった小村寿太郎率いる外務官僚だけでは植民地が公然と認められる当時の国際社会に於て、戦争の結果 だけでなくその後の日本の国体も含め考えるだけでも身の凍る思いである。

さて、伊藤公の残した足跡を租借すると今の日本外交を好転させる秘策が見えてくる。

その一つは、日本人何人たれ外交に携わる事ができ、時局を変えるキーマンになり得る教えである。

「自分は外国に行ったことはないぞ」「外交官みたいな特権はないのに」と思われるかもしれない。

しかし、今や日本には多くの外国人が滞在し、日々遭遇している。

また、国外にも先人のたゆまない努力により自由に渡航できる。

国交がない。それは国家間の「建て前」に過ぎない。何人たりとも当該国家に暮らす人々と「語り合ってはいけない」と云う妨げはない。

そして、個人間の繋がりの重層的蓄積こそが厚い国交関係を育むのである。

国家=政府は組織悪とは不可分な存在で、権力維持のため、分かっていても「本音」は語れない構造に陥りやすい。しかしながら、成熟した国家であれば、国家の出来ぬ 補完を個人で実現せしめる(時にはやらかすこともあるだろうけど)土壌を併せ持ち、「国家」と「個人の自己実現」を両立させる「究極型」に近づくものである。そして民主主義の予定するものはその「究極型」であり、民主主義の福利に浴する者はそれを希求、実践し、その補完行為を「国家」は育まなければならないだろう(イラン国の地震被災の際、国交のない、否、寧ろ敵対関係を標榜するアメリカ合衆国は「建て前」上、国家としての対応は出来なかったが、米国議会上院議員の特使を以て「本音」のそれを行ったのは記憶に新しい)。

最後に伊藤公はハルビンで暗殺されるのだがその直前に「戦争が国家の利益になることはない」と演説している。「国益」なる美声の基、武力による安易な解決が一つの有力な外交手法だった背景を考えると昨今の日本でも「建て前」しか語れない凡百の宰相とは一線を画した発言と驚嘆するのは私だけであろうか。

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