●2006/06/28浜武レポート「共有の再構築〜義務教育がやるべき事」

共有の再構築

もし、先生が授業中、ある生徒を説教したとしよう。すると、他の生徒から「先生授業を続けて下さい。私たちには関係ない事でしょう」と理路整然と意見する。他の生徒も「授業を続けてください」「先生、別 の時間にして下さい」「先生冷静になって」と大人顔負けの指摘を生徒が繰り出す。

他日、授業が中断した事が保護者に伝わり、説教されるべき生徒の保護者は「何故、みんなの前で叱るのですか」と云い、他の保護者は「これだから学校は」とぐちをこぼす。

そして、学校管理者に口づてに伝わった時には、押し寄せる保護者の話は日頃の学校へのうっ積が脚色され、学校は保身に終始する。

受験を控えるある小学校高学年の教室風景だ。

皆の前で説教をする事もできない。ましてや手を上げたら新聞沙汰。大人が子どもに対して「何をしてはいけないか」を共有させる場面 の喪失の構図である。

共有の喪失は学校だけではない。プライバシーの供出を要求し、居心地の悪い「ムラ社会」の崩壊。大量 生産大量消費を支える都市への労働者供給に伴う家族離散。学校、地域、家族のあらゆる場面 で「何をしてはいけないのか」を共有する場面を失っている。

夫婦同志の価値観を互いに尊重する事。それは互いに仕事を持ち共同参画できる社会だから可能である。しかし、価値観の差異は子どもの躾に影響を与え、ある時は母親が云ったから、ある時は父親が云ったからとコロコロ言い逃れをする子どもが誕生する。夫婦同志もお互いを傷つけ合いたくないので、子どもが何か悪さをしても、指摘した他人に対し、家族のかばいあいに終始する。裁判で訴えない限り他人に干渉しない社会の誕生である。

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毎週日曜朝、聖書の一説に耳を傾ける。聖書には「何をしてはいけないか」を含め、理屈抜きの二千年に亘る教えがある。聖書は新たに書き変えられ、増章されたとは聞かない。よって、これまでの文筆や社会習慣も聖書に反する事は少なく、聖書=バイブルは行動規範の暗黙の了解の域に達していると言って差し支えないだろう。これは強固な社会であり、また、共有のためのコストも小さい。

但し、共有できない者に対するしうちはイスラエル紛争、バクダットを見れば明解である。

上手く行っている時はいい。しかし、対立が起きれば、共有を失った関係は残忍になる。

さて、窮屈なムラ社会を放棄した日本人は護送船団方式の過去に戻る選択はできない。学歴や会社等のエンブレムだけでは守ってくれない時代の到来だ。これからは新たな共有を構築した者が強く、快適な人生を送るだろう。

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子どもが叱られた際「お話ありがとうございました」と素直に云えるか否か。人と人の重層的な繋がりが希薄な今日、我々は毎日、試されているのかもしれない。

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